考えたこと

【考えたこと】世の中の曖昧性について

先日読んだ「使える!確率的思考」に、世の中には「決断をしなかった側」の結果が観測できないことがほとんど、という記述がありましたが、これは、本当にそのとおりだと思います。

決断を迫られている場合もそうですが、何らかの戦略なり行動の成果を計ろうとしたときにも、同じことが言えます。

例えば、ある商品のPR活動を、一定期間集中的に行い、その前後の商品の売り上げを比較したとします。売り上げが大幅に上昇していたとしても、それが、本当にPR活動の成果なのかどうかは、誰にも分かりません。もしかすると、売り手が全く知らないところで、口コミで噂が広まったのかもしれないし、どこかの雑誌でたまたま取り上げられたのかもしれないし、・・・・・などと考えていくと、「売り上げが伸びたのは、PR活動の成果です」とはっきり証明することは、ほぼ困難です。結局、PR活動の成果がどのくらいあったか、つまり、「PR活動をしないという選択肢をとった場合の結果」は、誰にも計ることはできないし、未来永劫わからないのです。

が、逆に言うと、PR活動の成果がなかったということを証明することも、これまた困難であり、要は、証明責任をどちらが負うか、というだけの問題です。

なぜこんなことを書いているかといいますと、最近、仕事で、「○○という政策に関する広報・啓発活動によって、その政策がこんなに世の中に浸透しました」という趣旨の文章を書く場面に遭遇し、とりあえず書いてみたものの、ふと、「どうしてそんなことが言えるんだ」と言われたら、困るぞ、と、そんなことを思ったのです。もちろん、「最近の世論調査で、政策に関する周知度がこんなに高まっています」とか、それらしい根拠は挙げてみているのですが、それが本当に広報・啓発の効果なのかと言われると「・・・・・」と、だんまりするしかない訳です。もちろん、「広報・啓発の効果でない根拠」も証明できないはずなので、反論してみる、という手もありますが、全く生産的ではありません。

こう考えてみると、社会で起こっていることというのは、だいたいが、こうしたある程度の曖昧性に、常につきまとわれているのかな、という気がします。これが、科学の実験ですと、①他のあらゆる条件を一定にする、②繰り返し試してみるという2つが可能なので、ある行為があった場合となかった場合の比較ができますが、社会現象については、これができないからです。

「使える!確率的思考」では、こうした曖昧さが、客観的には非合理的な不作為(例:食品メーカーの、「食品事故回避のための万全の対策をとらない」行為)の結果による、企業の不祥事などに繋がっているという記述がありましたが、これは、なるほどと思いました。

「万全の対策」をとろうとすれば、それなりのコストや時間が必要な訳で、それを考えると、不作為という選択肢をとる方が、事故が実際に発生するまでは、一見合理的な選択のように見えます。しかも、たとえ万全の対策をとり、その結果食品事故が回避されたとしても、誰も褒めてはくれない訳です。

が、一方で、いったい事故が発生したら最後、消費者の批判、マスコミからの袋たたき、企業イメージの低下など、さまざまなリスクが一気に降りかかってくるということで、ここにも、ある種の非対称性があります。

この非対称性、曖昧さを超えて、1つ突き抜けるためには、相当なエネルギーと突破力、関係者の理解を得る力が必要になってくるのではないか、そんな気がします。

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